「生きる意味と価値を求めて」
−筋ジストロフィー症児の生と死に学ぶ−

                                                         石川 左門理事長

 筋ジストロフィーという病気には実はたくさんの種類がある。その中で一番典型的なのがドゥシャンヌ型という、選択的に男児に出てくる病気で、伴性劣性遺伝性の疾患である。私自身そういう病気の子を持ち、遺伝という偏見に対する闘いのために、患者運動の中で他の障害児の場合とは違う難しい側面も経験した。

 この病気は2、3才頃から、親からすれば原因がわからないままに現れ、身体の筋肉の一番使うところからだんだん萎縮してくる。筋繊維と筋繊維の束の間に脂肪が入り込んで、本来運動に使われるべき筋肉が萎縮していって小学校3、4年生の間に例外なく歩けなくなる。

 以後は車椅子の生活となり、椅子の上に座位を保つ時間もだんだん短くなっていく。最終的に17、8才の頃にはほとんど寝たきりの状態になる。そして内臓の筋肉にまで萎縮が及んで心不全・呼吸不全という状態になり、痰も自力では出せなくなるため、気管切開をしてカテーテルを入れ、痰を吸引しなければならない。最後はたいへんな介護負担になる。

 普通一般の障害児の家庭では、その子の将来の自立ということが最大の問題となると思うが、筋ジスの場合には難病であり20才までの命という厳しい条件つきであるために、次のような三つの関門をくぐらなければならない。

 第一は、わが子の病気の宣告を受けた親が、どこまでそれを受容できるかということ。

 私自身も覚えがあるが、忙しい外来診療の中で、病名は告げられても納得のいく説明は得られない。
きちんと説明してくれる医師を求めて病院を渡り歩き、医療不信に陥っていく。当時私共は、この病気に対する知識がなかったので、脳性小児麻痺のような病気だろうと、障害児の親の運動に参加してこの病気の問題に取り組もうとした。

 そして地元の重症心身障害児の施設を見学した際に、同じ病名の子がいることがわかり、その実態を医師から聞いたことで、わが子の病気の真相を知った。
 大打撃を受け、その夜は夫婦共々泣き明かした。これが、どの家庭でも多かれ少なかれ経験する第一の関門である。

 クリスチャンであった私は、神との問答を試みたが、神は沈黙を守るのみだった。
 その時の私は、子はこの厳しい病気を背負いながら成長していく、この子の心の支えになるような新しい親の生き方を見つけなければ、と考えるに至り、それが実業の道から患者運動・福祉運動へ大転換をする動機となった。
 しかしそれは、今から考えると傲慢な話だったわけで、実は私こそが子どもから支えられたのだということを、その後33年間の福祉運動の中でしみじみ感じた。

 二番目の避けられない関門は、歩行不能になった時である。親がどんなに必死に病気の真相を隠そうとしても、歩けないという事実を通して、子ども自身が否応なしに病気の真相と向かい合う。

 ある日私が帰宅すると、部屋の中から息子正一の悪態をつく声が聞こえてきた。
彼はとうとう立ち上がることすらできなくなって、部屋中転げ回って泣き叫んでいた。

 私が入ってきた気配を感じて我に返った彼は、母親が壁に向かって肩を震わせて泣いているのに気づいた。
「お母さんが悪いんじゃないよ。お母さんのせいじゃないよ!」と言うと、彼は部屋の真ん中にあぐらを組んで、歯を食いしばって天井をにらみ、ぐっと涙をこらえた。その時から彼は泣かない子になった。

 第三の関門は別れの時、親が子を見送らなければならない時である。

 大きな大きな穴が胸の中に空いたようで、しばらくは自分の日常生活の行動が全く地に足がつかない状態だった。

 常に抱き続けている三つの恐れというのもある。
 第一に、子どもが自分の病気のことを知りたがった時、親はどう答えたらよいのかという恐れ。
 二番目の恐れは、子どもが必死に情報を集めて自分の病気が治らないということを知った時に、
「何才まで生きられるの?」と質問された時。
 そして、治療法のない病気、20才までの命と分かった時に三番目の質問が出てくる。
 それが今日のテーマであり、短い命で一生人の世話になりながら生きる人生とは一体どんな意味があるのか、
ということである。

 憲法25条には人間は平等に生きる権利があるということをうたってはいるが、健常者も、社会参加もできずに一生を終わる者も、人間として生きる上で等価値なんだという哲学はない。

 専門職の方達は、難病の子と接したときにそういう問いを受けるかもしれない。
「僕の病気は治るの?」「何才まで生きられるの?」「そんな短い命で、どんな生きる価値があるの?」
という問いに対して、専門職としては答えられないと思う。

 一人の人間として、その人自身が自分の人生とどう取り組んでいるのかということが問われる。
 親もまた、それを問われる。うまい答えなど見つからなくても、誰にもわからないこの問いを前に、人生探求の同行者としての態度を、子どもたちにどう示せるかということだと思う。

 普段主に脳性麻痺の子と接している養護経論から、筋ジスの子にとって明日なき今日を学ぶ意味とは何なのかという質問を受けたことがある。目標を設定してそれに向かって励ますという従来のテクニックが、下降線のみの人生を送る筋ジスの子には通じない。一人の人間としての人生観が、教師にも問われるのである。

 私共の団体では、毎年2泊3日の宿泊集団検診を行っている。専門医の先生を呼んで、一人一人の患者について説明や指導を受け、家族の体験交流をはかる場であり、子どもにとっても、年に一度の楽しみとなっている。
 しかし友の不参加から敏感に死を悟る機会にもなる。

 わが家ではこの病気に関して親子の間にタブーはなかったが、それはむしろ例外で、どの家庭でも子どもには真相を隠そうとする。うちの息子が、私の知らないうちに漫画雑誌の取材に応じ、病気の真実を伝えるその記事を見た同病の友人が、ショックの余り登校拒否になってしまったことがある。

 緊急に開いた「生と死の懇談会」で、この情報過多の時代にもはや隠し通すことができない以上、真実を知ってしまった時に子どもがそれに向かい合って乗り越えて行けるよう、心の強さを培う教育にこそ、親が関心を持つべきであろうという結論に達した。
 しかし、それがどういう教育なのかは分からないという点で、これは結論とはいえない結論だった。

 悩み苦しんだ末に、子どもたちは親の計り知らないような精神の高みに達する。
 そんな子どもたちの詩を紹介したい。

 ぼくは冬にいきるから 春の浜辺の夢はみない 耐えられないからだ
 社会に出て出世する夢はみない 結婚をして家庭をもつ夢はみない
 僕には何か別に生きる意味がいる あたらしい価値の基準がいる

 それから、私の亡くなった子正一がこんな詩を書いた

 たとえ短い命でも生きる意味があるとすれば
 それは何だろう
 働けぬ体で一生を過ごす人生にも
 生きる価値があるとすれば それは何だろう
 もしも人間の生きる価値が 社会に役立つことで決まるなら
 ぼくたちには 生きる価値も権利もない
 しかしどんな人間にも差別なく 生きる資格があるのなら
 それは何によるだろうか

 このように必死に子ども達が求めている生きる意味・価値観を、大人社会が提供しない限りは、子ども達は自分の人生を肯定できないままに、迷いつつ死の問題に直面しなければならない。

 わが家の場合は、三つの恐れが極めてダイレクトに現実のものとなった。息子が14才の時、父子で入浴中のことだった。真剣に自分の病気のことを質問する息子に、私はかねて覚悟していた通り、20才までしか生きられないといわれている病気であることを伝えた。
 息子は顔色を変えずに「じゃあ、明日からどう生きるかが問題だね」と言った。
 そうして彼は、私の若い頃などにも想像もできないほどの生まれ変わりを遂げ、翌日から猛勉強を始めた。

 人生にはどうしようもない現実というものがある。自分の場合にはたまたま筋ジストロフィーという病気だったけど、そうじゃなくても人間であれば避けられない事が誰にでも。それは真正面から受け入れざるを得ない。死を受け入れることさえも可能にするような条件とは何かと考えた時、悔いなく生きた者だけが悔いなく死を受け入れられる。というのが息子の出した結論だった。

 息子にとって、学ぶということが、何かの手段でなく、生きることそのものになった。彼を含めて何人かの子どもたちが、人間はどう精一杯生き抜いたかでその価値が決まるんだという、新しい哲学を見い出していった。

 人間は自ら望んで生まれてきたのではなく、存在させられている存在だ。自分の運命すら選択できない。しかも決定的に死は避けられない。人生とはなんと納得のいかない不条理のものか。といった実感を、筋ジスの子ども達は歩けなくなった時から抱いている。
 そのような実感から、命の一滴も余すところなく燃やし尽くして死に立ち向かうことだけが、受け入れがたい死を受け入れるたった一つの残された道なのだという、新しい価値の哲学に到るのである。

 私が33年間の運動の中で子ども達から教わったこととして、死の受容を可能にする条件とは何かと考えると、第一に、人間の生きる値打ちは、何ができたか、どれだけ生きたかではなく、どう生き抜いたかという、生きる姿勢において決まるという価値観。第二には、そういう新しい価値の哲学の確信に立って、精一杯生き抜いたという充足感。三番目は、それを見守ってくれる共感者の存在。

 このように息子が死を受容し精一杯生きたことで、いろんな遺産が生まれた。
 まだ車椅子の生活が保たれている時期、知り合いの方が彼から聞き取りながら記事を書き、本として出すことになった。その題を編集者が「もしぼくに明日があったら」と提案したのに対し、彼は、そんなふうに考えたことはない、「たとえぼくに明日はなくとも」というのが自分の生き方だ、と主張した。こうして出版されたその本は、つい最近まで増刷を繰り返し、多くの反響を呼んだ。